「煎りたて 挽きたて 淹れたて」にこだわり65年

 入り口を入ってすぐ左手で、存在感を放っているのが、自慢の焙煎(ばいせん)機である。3代目店主の八戸建さんは弾むような声で語り始めた。「元々は祖父(雅宏さん)が新橋で始めたジャズ喫茶が始まりです。戦後、珈琲のおいしさとそれにまつわる文化を広めたいと跡を継いだ母(敬子さん)は、店を始める時に、『煎りたてでなければ本当の味を出すことはできない』と考えたようです」。六本木で鈴木利昭さんという屋台に小型の焙煎機を積んで商売をしている人を見つけ、「珈琲のことを教えてくれませんか」と直談判した。元々ケーキ職人だった鈴木さんは、それに合う飲み物として珈琲とセットで販売していた。鈴木さんは、焙煎の仕方はもちろん、淹れ方もていねいに教えてくれた。そんな経緯から「珈琲園(創業当時の屋号)」は開業したのである。

吹き抜けになっている階段の細いスペースは個室みたいで、落ち着ける

 政府は、56(同31)年の経済白書で、「もはや戦後ではない」と発表したその後さまざまな物資が街にあふれるようになっていく。「喫茶店も雨後のタケノコのように、ものすごい勢いで増えていた時代でした。母は他の店との差別化を図るために自分の店を『美人喫茶』と呼び、モデルや女優の卵たちを給仕として雇いました。それがちょっとしたブームにもなりました」。店内には大きな水槽が飾られ、スタイル抜群で美貌の女性が珈琲などを提供していた。世界には、「ウーマンリブ」の風が吹き始めていた頃だ。このスタイルは、これからの日本を象徴しているようにも見えたに違いない。


年季の入った木製の椅子。座り心地はちょっと硬めだが、居心地の良さについ長居してしまう

 都庁が有楽町にあった頃(平成3年に新宿に移転)は、職員たちが、築地あたりからも足を延ばして、うまい珈琲で一息ついた。1日1000人ほどの客が来店することも珍しくなく、店は繁盛した。「当時はメニューも少なく、ほとんどの人が珈琲を注文するので、オーダーを聞く前に珈琲を持っていっちゃったこともありました」。珈琲園の人気は、その味に支えられていたと八戸さんは目を細める。「目の前で生豆を焼き、挽いて、ネルドリップで提供していました。その味をお客様が分かってくれたと自負しています」

 もともと、屋台の直火焙煎に惚(ほ)れ込んだことから始まっているので、当然直火にこだわっている。そのため、煎る人のクセが出やすい。(豆の)焼き手の力量が出やすい機械をずっと使っていたが、それは今でも変わらない。ただ、何度か大きな失敗もある。豆を焼く部分とそれを冷ます部分、後は煙突しかないかなり年代物の焙煎機を使っていた頃だ。「アイスコーヒー用の豆は、普通に焼く時よりも多く煙が出ます。それで、真上に走っているJR中央線を3度ほど止めたことがありました」と苦笑いする。


(上)2階へと上がる階段。下には生豆が入っていた麻袋が置かれていた(下)らせん階段になっているからなのか、不思議と店全体に開放感がある

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