同潤会代官山アパートを復元 団地の歴史を後世に

 さらに、昭和30年代には、専用庭を備えた2階建の低層集合住宅「多摩平団地テラスハウス」が登場。一戸建てのような外観は人々を驚かせ、後に郊外の団地の多くに採用された。

メゾネットタイプの階段の下の物入れ。斜
めに見えているのは、2階へ向かう階段だ

廊下にあるマンホール上部にある丸で囲まれた「住」は、公団住宅の「住」を表す。

メゾネットタイプの1階と2階を行き来する階段。ずいぶん急な感じがする

 当時の公団住宅は5階建てが多く、エレベーターもなかった。しかし、前川國男が設計を担当した晴海高層アパートは10階建てでエレベーターも設置された。それまでの公営の住まいとは、一線を画すことになる。前川がフランスに外遊した時、ゆったり過ごす家族の姿を見て、日本にも近い将来そんな暮らしが訪れると考えて建てた住宅だったのだ。さらに、トイレも洋式が採用され、日本の暮らしが西洋に近づいていく。ダイニングキッチンから、和室を眺める。この間取りは今は少なくなったが、昭和には頻繁に見られた

共有電話。当時は、各部屋に電話線は来て
いなかった。取り次ぐ係の人がいたらしい

長くて広い廊下。子供たちがローラースケー
 トで遊び過ぎ、騒音問題となって禁止になった

郵便受け。木製なのが時代を感じさせる。
鍵は一応ついている様だが、少し物騒だ

エレベーターは、止まる階と止まらない階があったので、自分が行きたい部屋を見つけるための地図が用意してあった

ペンキが剥がれた窓枠が時の経過を如実に物語っている

 古檜山さんは言う。「家賃は、木造アパートの5割増しほどだったと言われています。水道、ガス、電気が整っていたので、比較的、社会的地位が高い人が暮らしていたみたいですね」。この時代は、使う電化製品の数によって電気代が決まる定額制だった。電気代節約のために、独身用の方は傘を被った電球が一つだけ。付け根のところにあるソケットを今でいうテーブルタップの様に他の製品へと繋いだ。

 少し悲しいのは、トイレの中に照明がなかったことである。部屋から漏れてくる光を頼りにトイレを使っていたという。これら公団のアパートは、さまざまな変遷を経て、当時は珍しかった自家風呂がつくようになる。風呂釜の多くは木製でガスで湯を沸かす方式が採用された。

 60年代になると、「住まいの中心にダイニングキッチン」というのが一般化し、ラジオを聴きながらトーストをかじるライフスタイルが日常の光景へと変化していった。背景には、集合住宅の進化があったのだ。

来客を確認する覗き窓。開けたら完全に目が合

マンション内の備品の数々が広い展示室にかざられていた

「このミュージアムを作る計画が持ち上がった時、『昭和のものを保存しましょう』というのがひとつ。それとURとしても、住宅の歴史を知ってもらいながら、我々の取り組みを知ってほしかった』こともありました」と古檜山さんは誇らしげに言った。

 かつて、晴海高層アパートの海側のバルコニーからは、東京湾が見えていた。今で言うところの「ウオーターフロント」に住まうことの満足感を住人は味わっていたことだろう。

ゆーあーる まちとくらしのみゅーじあむ
東京都北区赤羽台1-4-50
📞:03-3905-7550
開館時間:午前10時〜午後5時
事前予約制のツアー見学のみ(午前10時〜、午後1時〜、午後3時〜
休館日:水、日、祝(年末年始・臨時休館あり

文・今村博幸 撮影・JUN

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