旧三河島汚水処分場喞筒場施設(東京・三河島)
retroism〜article236〜
生きていくために飲み水が大切であるように、我々の生活にとって下水も必要不可欠だ。日本で初めて建造された下水処理場の遺構が東京・荒川区荒川に残っている。「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」だ。
階段の両側には、入口阻水扉室上屋が立っている。下水の流れを一時的に止める扉がこの下に設置されている
1922(大正11)年3月26日から運転が始まった。それまで生活排水、雨水などは川や海に流され、し尿は農作物の肥料として利用され、処分できないものは海に捨てられていた。明治以降、日本は近代化を進め、その中心である東京市は急速に人口が増加する。同時にコレラなどの伝染病が流行し、多くの死者が出て衛生環境は悪くなっていった。また、浸水も頻繁に発生するようになった。道路や空き地を確保するために、江戸時代からの水路や運河などが埋め立てられて雨水の流れる機能が急速に失われたためである。
施設の表玄関。人や車の出入りを確認す
る1925(大正14)年にできた門衛所
重要文化財見学担当の足利清市郎さんが説明する。「東京市では、伝染病などの衛生問題を改善すべく、上水道と下水道の整備が必要であったが、財政上の理由からどちらかを先行して行うかの議論が持ち上がった。東京市では、やむなく上水道の整備を先行しました」
沈砂池に下水が入るアーチ型の水路。周りの石は花崗(かこう)岩だ。底にアールをつけて、不純物などが残らないように工夫されている
水道が普及した後、東京市は下水道の整備に着手し、04年(明治37年)、東京帝国大学教授の中島鋭治に下水道の調査を委嘱。07年(同40年)に「東京市下水設計調査報告書」が提出され、東京市の下水計画が作成された。その後、中島の教え子である、東京市技師・米元晋一が11年(同44年)から12年(同45年)に欧米の48都市を訪れ、最新の下水道技術を我が国にもたらしたのである。その米元が中心となって、14(大正3)年から22(同11)年にかけて、我が国最初の下水道処理場が建設された。
喞筒井阻水扉室。メンテナンスなどのた
めに、この扉で流れてくる下水を止めた