路地裏を歩く其の肆

神保町(東京・千代田区)

retroism〜article68〜

神保町になくてはならない、老舗喫茶さぼうる。昔と何も変わっていないのがうれしい

老舗喫茶店のミロンガ、ラドリオは、路地も含めて一つの
風景のような気がしてならない。一昔前の風景に息をのむ

閉店した店の壁面に残っていた鉄板ポスター。「洋服
 店」と書かれているが、絵柄は和服とは、これいかに?

 栄屋ミルクホールはもともと、明治政府が推奨してい
 た牛乳を飲ませる店だった。関東大震災以降はコーヒ
ーや軽食なども供した。創業は1945(昭和20)年 

額縁店の優美堂。正面の絵柄はほぼ剥げ落ち
ているが、よく見ると上の方には富士山が描
かれ、店名の文字もかろうじて残っている 

神田小川町の一角にあるビルに備えられた手動エレベータ
ー。ここが東京のど真ん中であることを一瞬忘れる空間だ

1921(大正10)年創業の奥野かるた店。百人一首、花
札、碁・将棋、すごろく、かるたなど、「電気を使わな
い遊び」を主に扱う。建物が新しいところが逆に面白い

ある時期から一般的な古本屋には映画のビデオテープも並ぶようになり、いつの間にか消えた。ここ神保町ではいまだに目にする機会が少なくない

通りがかりの居酒屋の店頭には、営業に備えて、スノコが干されていた。チェーンの飲食店ではまず見られない光景だ

いつから下げられているのかわからない民
家の朽ちかけた風鈴。涼しい音がしていた

純学術団体である東方学会の本館。この建物あるかいわいで
は、孫文や魯迅、周恩来などが留学生活を送っていたという

1879(明治12)年創業の山形屋紙店。大正2年の神田の大火事、関東大震災、東京大空襲にも耐え抜いて神保町の街を見守り続けてきた

映画、演劇および演芸が専門の、超がつく有名店「矢口
書店」。看板建築の店舗は外から見るだけでも楽しめる

幸田露伴など、文豪の全集が普通に売られているのが神保町の真骨頂。ひもで縛ってあるのも、ならではだ

神保町の路地裏にひっそりとたたずむ「梅
 の湯」。皇居の周辺を走るランナー御用達だ

草履の履き方で、粋の度合いがわかる時代もあった

外観からしてうまそうに思える店は意外に少
ない。そんな店の一件がこちら「中華 成光」。
編集者によると、チャーハンがいけるらしい

あとがき

「少し前までは、わりかしたくさん残っていた看板建築も、ずいぶん減ってるの。寂しい気もするけど、時代だからしょうがないわよね」

 数年前に閉店した額縁の店「優美堂」を撮影していると、近所で店を営むというの品のいい初老の婦人が話しかけてきた。彼女らの言葉の端々には、神保町という街に対する誇りと、それらが失われていく寂しさが、漂っている。ずいぶん前の話だが、今も残る老舗喫茶店の女主人と話している時にも同じ思いに駆られた。彼女が寂しそうに言った言葉が今でも忘れられない。

「昔は神保町にも人情だとかがちゃんと残っていたのよ。人と人との関わりが変わっちゃったのかしらね」。それでも、いまだに見ず知らずで怪しい風ぼう?の我々に気軽に話しかけてくれる。少数かもしれないが、そんな人懐っこさがしっかりと残っていることに愁眉(しゅうび)を開いた。

 神保町が本の街として発展したのは、大正から昭和初期にかけてだと言われている。千代田区史によれば、「神田に所在する私立大学の拡張……一般に中間層、知識階級の大量創出、その上に立つ出版業の発展」を促すためだった。すなわち、専修大学、中央大学、明治大学、日本大学などの大学が点在していた。学生たちが、教科書や書物を必要とし、それらを売る店の需要が急速に高まった。当時の学生のほとんどは貧乏だったため、先輩たちが使った古本を求めたという構図だ。

 いまだ健在の「古本屋」は建物もそのままに、神保町を形作っている。実際に歩くと、合間に懐かしさがあふれ出す商店や看板建築の数々が目に留まり、思わず足を止めてしまうのだ。

 古本と、かつての街並みが随所に残る面白さ。その2つが神保町の真の魅力である、と断言したい。

文・今村博幸 撮影・SHIN

※新型コロナウイルス感染拡大で、対面取材を自粛しております。当面、特別編や路地裏を歩くを配信する予定です。ご了承ください。

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