偶然の出会いが奇跡呼ぶ ライトの希少な学校建築

 ライトがこの小さな学校の校舎の設計を快諾した理由のひとつとして、羽仁もと子が婦人之友によせた文章で「ライトさんの叔母君が、ホームスクールという、家庭そのもののような学校をもっておいでになったということが、特に自由学園の建築に興味をお持ちになる動機になったようでした」と述べています。大正デモクラシーという流れの中で、学校教育を直接生活に結びつけたり、女性が社会に進出することに対して積極的だった羽仁夫妻の方針に共感したこともあるかもしれない。もと子は、学校で教えてきた知識一辺倒、詰め込み教育に対して異論を持っていた。机の上でわかったようになってはいけない。これから世の中が変わっていく時代に、家庭を担う女性たちに、きちんとした社会を見る目と自立した精神、家庭を切り盛りできる女性を育てたいと考えていたのだ。

建設開始から1カ月後、未完成のこの教室で1期生の
 入学式が挙行された。中途半端なところに建物を支え 
 る柱があるが、それさえも巨匠が作るとアートに見える

 「学校自体が家のような場所であり、競争ではなく協力の社会として、自分の役割を見いだし、実践する。生活そのものが教育である。広く世の中に目を向けつつ、社会の最小単位である家庭をよくしたいという考え方が基本だったと思います」

ライトの弟子である遠藤新の設計した講堂。1927(昭和2)年に完成した。97(平成9)年には、中央棟、東西教室棟、講堂が国の重要文化財に指定された

 学校機能は現在の東久留米市に移転し、老朽化が進んだ明日館は一時取り壊しの話がでることもあったが、保存を望む声も多く、長年にわたり議論が重ねられた末、国の重要文化財の指定を受けることが決まり建物は守られた。大規模な保存修理工事を経て、使いながら守る「動態保存」を実践する建物として再スタートが切られたのが2001(平成13)年の秋であった。

 岡本さんは言う。「102年前の池袋はまだ郊外でまわりは、田園地帯でした。『プレーリーとは、丘のうねうねしたような土地』のことを指しますから、丘陵地帯が多く広がる米国ウィスコンシン州生まれのライトのアーキテクトとしてのイメージも膨らみやすかったのかもしれません」保存修理工事の時に発見された、当時のトイレ。洋式だが、流すのは昔から日本にあるひもを引っ張るタイプだ

 令和の時代に明日館が残っているのも、ミラクルと言っていい。池袋という東京のど真ん中でありながら、関東大震災でも被害をほとんど受けず、東京大空襲でも焼けることはなかった。たまたまライトが日本に来ていて、たまたま弟子と知り合いだった……と考えれば偶然が奇跡を呼んだ気がしてならない。建てた当時からある柱と照明。凝った美しいデザインが幻想的な雰囲気を醸し出している