横浜を見守り九十余年 レトロモダンな近代建築

 建設当初は「上田屋ビルディング第二号館」という名称だったが、「横浜外人アパートメント」という記述もある。関東大震災で焼け野原と化した横浜の海岸から一本入った場所にある頑丈な4階建てのビルだった(現在は5階建て)。設備は充実していた。1階には、食堂、バー、キッチン、売店などがあり、2階から4階は居室になっていた。各部屋に水栓トイレ、シャワー、風呂、台所、暖房設備、扇風機、家具などが備え付けられていた。入居者は外国人のビジネスマンが多かった。

ロビーにかつてのフロントがあり、ボーイが中から客の世話を引き受けた。左奥は階段。小窓の上には懐かしいたばこが飾ってある

 「関東大震災並みの地震には耐えられるように作られていますので、先の東日本大震災の時も、『ちょっと揺れてるかな』ぐらい で被害はもちろんゼロでした。そのくらい強固なビルなんです」。その後、横浜は再び焼け野原となった。第二次世界大戦だ。海岸付近もほとんどが焼かれてしまう。しかし、横浜のホテルニューグランドとこのビル、他にいくつかの鉄筋の建物が残された。戦争が終わりかけた頃、米軍は日本の降伏を確信していた。占領した後に自分たちが使えそうなビルはあえて爆撃しなかった節がある。それがこの付近で言えば、同ホテルとインペリアルビルだった。「その資料があります。米軍が落とす前の計画図があって、ピンポイントで示されているんですけど、それを見ると、爆弾はほぼ正確に落とされているんです」

部屋から呼び出しがあると、ベルが鳴りボーイが駆けつける。木枠の中の金属が倒れて呼び出し階を知らせる仕組みになっていた

 こうしてかろうじて残ったビルは、戦争に負けて本国に帰れなくなったドイツ兵の宿舎となるが、アメリカ軍に接収された瞬間にドイツ人たちは追い出される。「わずか1日のうちに出ていくことを強要されたそうです」。勝てば官軍である。そして、ホテルニューグランドにマッカーサーが入ると、警備のために、すぐ近くのこのアパートメントに進駐軍、特に将校たちが滞在する。終戦から58(同33)年までの13年間、進駐軍が使っていた。設備が充実していて暮らしやすかったし、4階建てで眺めもよかった。

錘(おもり)を使って自動で開く扉がついているのは、ギャラリー
部分。壊れていたが、修理はもちろん上田さんの手によるものだ

 横浜の戦前と戦後をずっと見続けてきたインペリアルビル。上田さんは、このビルを大切に残していきたいと力強く言う。「それは、施主だった祖父が山梨の久那土村(現在の身延町北西部)という小さな村から横浜に来てくれた。伯父も含めて、3代にわたって私たちは恩恵を受けています。横浜に祖父が出てこなかったら我々はどうなっていたのかと思います。こんな一等地に文化財的なビルを建ててくれた祖父への感謝の気持ちです。おかげで私たちは誇りを持つことができるんです」。祖父が残してくれたこのビルに対する強い思いが、上田さんの目の輝きから伝わってくる。「私の目が黒いうちは、この建物は大切に残すと心に決めています」

2階事務所にあった「シャワールーム」の鍵。現在は執務室として使わ
れている。鍵一つをみても、長い歴史を感じさせ、往時をしのばせる 

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