「玉電の運転台にはやっぱり思い入れがあるよ」。もともとは蕎麦(そば)屋だった。三軒茶屋の蕎麦屋で修業し、1970(昭和45)年に「大勝庵」を独立開店。商売が落ち着いてくると、それまで集めていたものを店内に飾るようになった。「お客さんの中には興味を持って話しかけてくれる人も多くてね。ある日、東急電鉄の人が来たんです。『あなたの欲しそうなものもに出合ったら、俺覚えておくよ』って言ってくれた。その後に、またいらしてくださって、『ああ。まだ飾ってるんだね。だったら99(平成11)年まで走ってた電車が、要らなくなって解体するから運転台だけでもあげるよ』って。うれしかったなぁ」
かつて東急電鉄社員がかぶっていた帽子が、大塚さんのトレードマークへと生まれ変わり、今でも「現役」だ
玉電の運転台をあげると言う方も言う方だが、もらっちゃう方もすごい。以来、玉電の運転台がある蕎麦屋として営業を続け、2011年、病気をきっかけに店の営業をやめて、歴史館にすることを決意した。「蕎麦屋も通算42年間やったし、苦労もあったけど一生懸命頑張った。第二の人生として、自分が本当にやりたかったことやってもいいんじゃないか。今まで好きで集めたものを飾って、いらしてくれた人とトークしてれば、ボケないだろうと思ってね」
大塚さんは、筋金入りの石原裕次郎ファン。「憧れだったねぇ」と感慨深げに言う
歴史館を設立すると、たくさんの人が来た。「新聞社とか鉄道ファンとかが、写メをネットに上げてくれた。すると、『いつ開ける』って問い合わせが殺到したんだ。最終的にオープンしたのは、その年の12月10日でした」歴史館を始めてすぐに、東急電鉄からオファーも舞い込んだ。「歴史館を含めたスタンプラリーやりましょうって、言ってくれたんだ。自分は第二の人生のつもりで始めたけど、誰からも声もかけられないんじゃ寂しいじゃん。だから幸先よかったんだよ」
玉電の資料や写真がびっしり詰まった世界に一つ
だけの手作りのスクラップブック。一度紛失した
が後に戻った。帰るべき場所を知っていたらしい