絶滅危惧「クラカメ」の楽しさと文化を次世代に

 扱うのは、1960年以前のクラシックカメラだが、根強いファンが多く、それによってできた人間関係が自分の仕事の中で、一番好きだと早田さんはほほ笑む。「例えば、野村総合研究所主席研究員のリチャード・クーさんもクラシックカメラに目がないし、造幣局の偉い人の中にも、カメラ大好き人間がいたりします。三菱総合研究所の主席研究員の人は、ニコンに心酔していて700台のカメラとレンズを500本持ってる。そんな人との付き合いは、僕の宝でもありますよ」。当初、ヨーロッパに行くときには、奥さんを連れて行っていたが、ある時、子供も連れて行った。「彼らが、その思い出を忘れてないと言われるとうれしくてさ」。早田さんの表情が父親の顔になっていた。

フィルムカメラもフィルムも、今となっては貴重な存在になってしまった

 早田カメラ店の創業は1952(昭和27)年である。原点は、父親の清治さんが、16歳の時に目黒雅叙園のカメラマンの助手になった時にまでさかのぼる。助手の仕事は、カメラの整備と修理。そこで技術を身につけた。早田さんが店に入ったのは、18歳の頃。給料はもらえなかった。「親父に『給料は?』って聞いたら、『そこら辺にあるカメラを整備して自分で売れ。売れた分はそっくりそのままお前にやるから』って言われたんだよ。その一言で僕は、がんばったねぇ〜。売れれば売れただけ金がもらえると思ってね」。こうして、早田さんは腕を磨いていったのである。

(上)早口で話す早田さんの目は、子供のよう
 にキラキラと輝いていた(下)修理で持ち込ま
れたライカM
3。手慣れた手つきで分解してい
く。動きも表情も職人の顔つきになっていた   

 やがて、早田さんに転機が訪れる。上智大学で教壇に立っていた常連の客で、カメラを多数所有している人物がいた。彼に誘われて、3週間、パリからヨーロッパを回った。「世界には、こんなにクラシックカメラがあるんだ」と目からウロコが落ちる気がしたと言う。以降、しばしばドイツやフランスなどへ出掛けては、フォクトレンダーなどの機械式のカメラを仕入れに行くようになる。「安いヨーロッパのカメラを買ってきて店で売るようにしたら、お客さんに、こんなカメラがあるのかって、びっくりされましたよ」

ブローニーカメラ用のフィルムが巻かれているスプロール