時空を超えた作り手の想いとブリキの輝き いまも

 やがて印刷の機械も輸入され。日本でも生産量は飛躍的に伸びていく。「だから、ここにあるのもほとんどがメード・イン・ジャパンです。50年代、60年代という時代は、世界の中でも日本が一番の生産国でした」。それらはほとんどが輸出品だった。ブリキのおもちゃは、世界に向けて作られたのである。当然、需要も高かった。

整然と並べられたブリキのおもちゃ。見ているだけで吸い込まれそうになる魅力を改めて感じる

 日本は石油などの資源がほとんどない国。加工品を東京の下町で作って、欧米に向けて輸出して、外貨を得ようとした。要するにドルを獲得するための産業だったのである。日本が高度成長を遂げたのは、輸出業が盛んだったという一面があり、おもちゃの輸出が要因の一つになっていたのだ。

復刻版の象のブリキのおもちゃの鼻からシャボ
ン玉がキラキラと光を受けて輝きながら飛んで
いった。それを親子連れが夢中に眺めていた 

 経済が発展すると、さまざまなコストが上がり、軽工業をするのに適さない国になってくる。工場の土地の値段や賃金が上がったりして、100円で製造できていたものが200円になる。商品は当然売れなくなる。すると、業界は生産地を国外に移す。例えば、中国。海外の投資が呼び込まれたり、おもちゃ一つとっても経済の流れの上に乗っていることがわかる。「そういうものが醍醐味(だいごみ)というか、おもちゃを飾って格好いいとか、昔の友達に再会したようだとか、面白がって集めていくと、いつの間にやら、経済の知識までついてくるんです。これは他の産業でも同じですけど、コレクションの面白さでもあるんですね」

運転手(右)とバスガイドが平面なのが、ブリキ
のおもちゃっぽい。「WORLD」の文字が世界に広
がったブリキのおもちゃを象徴しているようだ 

 大量生産するのには、多くの職人技が必要だった。金型を作る職人がいたり、それをプレスする職工だったり、組み立てる内職の主婦だったり、工場をガラッと変えるのはコストの面で大変だったことが、逆に、長きにわたって作られてきた一つの理由でもあった。「コマととか竹とんぼとかの遊び道具はありましたが、昭和のおもちゃといえば、ブリキのおもちゃと言っていいと思います」

店長の古谷さん。豊富な知識を惜しみなく披露してくれた