書き手の思いがしためられた肉筆の手紙に魂感じ

 やがてタイプライターやワープロが登場し、その魅力や面白みは全て消えた。現代の伝達ツールは、EメールとLINE、SMS(ショート・メッセージ・サービス)が100%に近いと言っていいだろう。たまに届く直筆の手紙を見ると、感動さえ覚えてしまう。

 デジタルツールによる意思のやりとりは、現代では欠かせないものとなった。かろうじて残っているのはどこかの企業から送られてくるDM(ダイレクトメール)ぐらいで、宛名はもちろんパソコンで打ち、手書きのものは皆無だ。同封の文面もしかり。仕事の連絡のやり取りも全てがEメール、家族、親戚や友人に対しては、LINEやSMSがほとんどだ。

 確かに便利になった。特に仕事に関しては、かつての何倍もの速さで、作業がはかどる。タイプミスはあるが、字が汚くて読めないなどということもまずない。時代といってしまえばそれまでだが、気がかりなのは、パソコンで作成された資料などが、ずっと先の未来まで残るのかということである形あるものは、いつかは無くなるという大前提をここで持ち出すとしても、紫式部や清少納言の作品をいまだに読むことができるのは、写本などが燃えずに残っていたからである。

一般的な文章伝達ツールとして老若男女を問わず幅広い層に支持されているLINE。使ってみると確かに便利だ

 現代はどうか。ワープロが使われ出した頃には、フロッピーディスクに書類を保存していたが、今やそれを読み込める機器すら少ない。ついでに言うと、ビデオテープやカセットテープも、それを再生する機器も絶滅状態にあり、基本的に聴くことは困難である。

 デジタルで書かれたものが出てきてからまだ歴史は浅いが、100年後1000年後、今の暮らしや風俗、世相などを伝えることができるのか、筆者は憂いている。

 人の手で書かれたものは、肉筆とも呼ばれる。これは浮世絵からきている言葉らしいが、そこに魂を感じるのは、不思議なことではない。

 果たしてEメールやLINEに、魂はあるのか?

文・今村博幸




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