レトロな空間で極上のコーヒーとマジックに耽る

 先に、純喫茶とあえて書いたのには理由(わけ)がある。作道さんが張りのある声で力説する。「本来、コーヒーだけをお出しする場所をそう呼んでいました。だから、僕のところでも、基本はコーヒーのみです」。ストレートコーヒーも一通り置くが、ぜひ頼みたいのがオリジナルブレンド。モカをベースに知り合いの豆屋に頼んでブレンドしたものを、注文を受けてからひき、ペーパードリップで淹れる。ほのかな酸味に爽やかな風味を感じる、心に染みる味だ 食べ物は、トーストのみ。最初は店をやることに反対したという貴久枝さんが言う。「コーヒーだけじゃ商売にならないから、カレーなんかもやったらって言ったこともあるんですが、結局はやりませんでした」。コーヒーの香りを消したくないからと作道さんは、頑なに拒否した。「ただ、こっそり、あんみつをやってますがね」。あんみつも只者(ただもの)ではない。黒蜜の代わりに、濃いめの甘いコーヒーをかけて食べるタイプで、これがまた癖になるうまさなのだ。

神棚の前で手をたたくと、作道さ
 んが手品を披露する写真が登場! 

 ご夫婦ともに戦前生まれ。二人の戦時中の話も、彼らが元気でいてくれるから知ることができる。歴史ある喫茶店の意味は、そんなところにもあったことを知らされるのだ。「代田のこの辺りだけは戦争で燃えなかったんですけど、渋谷や三軒茶屋、環七の向こう側は火の海でした。四方が全部燃えてる感じでしたね」と貴久枝さんは、昔を思い出すように、首(こうべ)をめぐらせた。

蓄音機に慎重に針を乗せる作道さん。その奥にはジュークボックス。入っているのは、全て美空ひばりの曲。妻の貴久枝さんが大ファンだからだ 

 「私が子供だった戦争前から60年の間に、いろんなものが変わリましたね。たとえば音階。戦前は、『ドレミファソラシド』だったのに戦争が始まると「いろはにほへと」。野球の用語も、太平洋戦争中には、変な日本語が使われていましたよね」。一瞬の間の後、貴久枝さんが続けた。「戦時中も戦後も大変だったけど、私は、いい人生だったと思っています。カボチャやトウモロコシを買い出しに行ったことも懐かしい思い出。今となっては、なんでも食べられる幸せがあります。それも苦しい時代があったからこそ感謝できるんじゃないでしょうか」。貴久枝さんの表情は穏やかだった。

美空ひばりファン垂涎(すいぜん)の写真や栞(しおり)、ブロマイドなどが飾られている