子供たちの幸せが散りばめられたぬり絵の美術館

 「以前、高畠華宵さんのご子息の話を聞いたことがありますが、挿絵で有名な画家でさえ挿絵を描いていることにコンプレックスがあったというのです。ましてや子供の遊びであるぬり絵ですからね。でもその時私は逆に、伯父の作品も文化に違いないと認識しました。そして文化として残したいと強く思って開いたのがこの美術館です」

引き出し式の展示ケースを開けていくと、ぬりぬり絵の多様性が見て取れる

 最初は飾る作品も多くはなかった。でも、当時きいち氏の絵は毎月100万部売れていた。「きいちに会いたいと思ってくださる方は、きっとどこかにいるはずだと思いました」実際にオープンすると、寄贈してくれる来館者が多く現れる。「今は収集も仕事のひとつになってます。年に何回も展示替えができるぐらい、多く集まってます」もともと美人画を習っていたきいち氏は40(昭和15)年から「フジヲ」のペンネームでアルバイトとしてぬり絵を描き、子供たちから絶大な人気を博していた。しかし戦争が状況を一変させる。あらゆる物資は不足していった。当然のように、ぬり絵に必要な紙も色鉛筆もクレヨンもなくなった。しかし戦後すぐ47(昭和22)年に、きいち氏はぬり絵を再開する。灰色と化した街に登場したのが、「可愛らしい」女の子が素敵な洋服を着て鮮やかな「色」とともに登場したのである。

きいち氏は着せ替え人形も制作した。引き出しの中には子供の遊び道具が並べられている。「私も着せ替え人形を奇麗な箱に入れて持ち歩き、友達と遊びましたよ」と金子館長

 きいち氏が描くのは子供向けだが、「いかにも子供」という下絵ではなかった。「洋服のセンスも良かった。というのも、彼自身が東京・築地で生まれたお坊ちゃんで、いわゆるモボでしたから、ファッションセンスも良かったんです。はやった頃はかなり忙しかったはずですが、仕事を数日で終わらせて、あとは、日。舞踊や三味線、生け花などをたしなむことで磨かれたセンスが、彼の絵の中に色濃く反映されているんです」丸顔で目が丸くてぱっちり、足が太い。3〜4頭身の女の子が特徴だ。モデルは、アメリカの女優シャーリー・テンプルだったと言われている。絵の中には、季節に合わせた小物も描かれた。正月や豆まき、ひな祭り、その頃の流行したものや風俗も取り入れられ、子供たちにとっては情報誌的な存在でもあった。中心にはもちろん、「きいちの女の子」がほほんでいたのである。

海外のぬぬり絵も展示してある。絵柄など日本との違いが興味深い

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