昭和の音楽史に名を刻んだ巨星たちを悼む

 寺内タケシが亡くなったのは、つい先日だ(6月18日)。いうまでもなく「エレキの神様」だ。「テケテケ」という言葉がピッタリの奏法に音楽ファンのみならず評論家も絶賛した。カタカナ四文字で奏法が表現されたギタリストは、彼以外誰一人としていないはずだ。多くの若者の心をしびれさせ、ついでに、女性ファンを多く失神させたのも寺内が最初だった。(裏話によれば、最初は仕込みだったらしい。ところが次第に本当に失神する女性が続出した)。筆者は横浜の山下公園で無料のライブに出演している彼を生で見たことがある。遠くからだったから余計にそう思えたのかもしれないが、小柄だった。しかし実に大きく見えた。スターとはそういうものである。改めて聴いても、彼の早弾きやメロディーラインの力強さは、当時の音楽好きを仰天させ熱狂させたことは、想像に難くない。

 寺内タケシは、日本の音楽シーンをけん引してきた一人であることは間違いはない。まず、エレキギターを作ったのも彼だと言われているほどなのだから。最初はクラシックギターに興味を持ったが、電話の部品を使って警報用の拡声器に繋いだ電気ギターを発明したという逸話を持つ。彼の人生は伝説に彩られている。ミッキー・カーチスと出会い、ウエスタンバンド「クレイジー・ウエスト」に参加した。程なくして、他のメンバーが全員脱退。そこでベーシストとして入ってきたのがいかりや長介だった。その後、中本工事であり加藤茶が参加する。これが「ザ・ドリフターズ」の原型となる。寺内がいなければ、ドリフもいないし、「8時だョ!全員集合」もなかったことになる。日本のエレキブームの幕開けと言われた、加山雄三主演の「エレキの若大将」に出演を果たす。そもそも、昭和の産物を考えたときに、エレキギターを挙げることに異論を挟む人はいないだろう。65年の「ザ・ベンチャーズ」来日とともにエレキギターをかき鳴らしていたのが、寺内である。やがてグループサウンズ(GS)ブームへと時代は進む。この言葉の発案者も寺内だ。当時、寺内のコンサートなどで司会をしていた内田裕也にロックを教えたのも彼である。バカバカしくも、いかにも昭和という面白い事件が67(昭和42)年に起こる。「エレキは少年を不良にする」という理由から、「エレキ禁止令」を、栃木県足利市の教育委員会が発令したのだ。瞬く間に全国へ広がり、ほとんどのエレキバンドが解散へと追い込まれる。それを逆手にとった寺内は、全国の高校へ赴いて、「ハイスクールコンサート」を企画。エレキ=不良ではない。エレキで音楽の楽しさをしてほしいと、全国の高校を回ったのである。

近藤真彦の「ヨコハマ・チーク」(1981年)も作詞・
 松本隆、作曲・筒美京平の黄金コンビが手がけた   

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