文人墨客が愛した新宿の高尚な香りの文化知って

 寄せ書きに続くのは、さらに同館ならではの展示である。まずは、戦前から走っていた路面電車のレプリカ。いわゆるチンチン電車の復元模型だ。1935(昭和10)年ごろに新宿大通りを四谷方面へ走っていた車両は2種類あった。27(昭和2)年に製造された4200形は木造で小型、30(昭和5)年に造られたのが5000形で、こちらは半鋼製で大型だった。展示されているのは5000形。乗降客が爆発的に増えつつあった新宿駅に対応すべく製造された車両である。「出発進行!」と言う車掌の掛け声、チンチンと軽やかな出発の合図、そしてゴーと言う爆音をとどろかせて路面電車は駅を後にした。「朝日新聞が、『騒音地獄一巡り』と言う記事で、その音の大きさを伝えています」。「新宿がその王座『わめく鬼』市電」というタイトルで始まる記事には、東京の盛り場の中で、電車、バス、円タク(1円タクシー)で最も騒々しい場所が新宿だと報じている。市電が通る時が『騒音地獄』の中でも最悪だったようです」。市電は想像以上にうるさかったらしい。しかし、東京で暮らす人々に多大なる利便性を与えた手段であることは間違いない事実だ。

新宿から両国へ向かう市電、いわゆるチンチン電車。大きな車両は広い道しか走れなかったという。質感にもこだわって造られている

  一方、そんな電車の利用客が住んだのが、新宿の「街」の周り(郊外)に立てられた「文化住宅」だった。「文化住宅があったのは、山手線の外側。落合や下落合あたりに多く建てられました。復元したのは、落合にあった金子さんの家です」。大正から昭和にかけて、山手線の西側にサラリーマンのための住宅が次々に建ち始めていた。新宿や渋谷、池袋などを起点とした郊外電車の開発と同時に、沿線には住宅地が開発されていく。目白文化村や田園調布、大泉学園、成城学園、国立などがそれであり、本格的な洋風建築の建物が多く建てられた。大正デモクラシーの高揚を背景に、生活の西洋化を反映していたそれらの住宅に人々は心の底から憧れた。せめて一部屋だけでもと、小さな和風住宅に西洋の応接間をつけたのが文化住宅である。展示されている住宅に、都心に勤めるサラリーマンは、18円(現在の5万4000円相当)ほどの家賃を払い住んでいたという。「文化住宅の象徴である洋間は、客を招き入れる応接間として使うのが一般的だったようです。客間なので子供は入ることすら許されなかったと言われています」。応接間には、ソファーとローテーブルが置かれ、キャビネットの上には蓄音機が見える。西洋建築を思わせる真っ白な出窓が印象的だ。文化住宅の入り口の向かいに備えられた「ポケット拝見」という展示も面白い。当時のサラリーマンの持ち物や、主婦たちの化粧品などが、当時の風俗をよく表している。

文化住宅の象徴ともいえる洋間に備えられた
白い出窓と、外壁下部の下見板が特徴的だ 

 日本のみならず世界でも有数の繁華街であり、雑多で煩雑な街というイメージがある新宿。しかし歴史をひもとくとかなり高尚な香りのする街なのである。宮沢さんは言う。「1960年ごろに騒乱事件があったりして、いいか悪いかは別にして、文化の担い手は若者でした。言い換えれば文化を生み出し発展させた若者たちが集う街でしたし、彼らが文化をけん引してきた。新宿は、猥雑なイメージが確かにあります。でも香り高い文化が生まれ育った街でもあるのです」

「新宿区には、資料を展示する大きな場所がなかったということで造られたのが当館です」展示内容の充実ぶりに喝采! オープンは1989(平成元)年だ

 新宿歴史博物館を一回りすると、宮沢さんの言葉が心に染みる。改めて新宿という街を違う角度から眺めるのも悪くない。

しんじゅくれきしはくぶつかん
東京都新宿区四谷三栄町12-16
📞03-3359-2131
   開館時間:午前9時30分〜午後5時30分(入館は午後5時まで)
 休館日:第2・第4月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
観覧料:一般300円、小・中学生100円(団体割引あり)
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

文・今村博幸 撮影・JUN

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