昭和感半端ない近代商業建築の洋食屋

 パリー食堂店主の川辺(かわなべ)義友さんが、ボソボソと言う。「仲間がどこかから持ってきたんだよ。中身のことは俺は知らねーな」。モルタルの壁と木の枠だけの内装はまさにシンプルの極致と断言していいだろう。飾り気もなければ色気もない。目につくのは、壁上部にびっちりと貼られた祭りのポスターだ。「俺は祭りには関わってないよ」。それでも、ポスターを飾っているのは、秩父人としての必然かもしれないが、そんなことを聞こうものなら、川辺さんはきっとこう言うだろう。「くれるから貼ってるだけだよ」と。

比較的新しくみえる暖簾だが、読み方は右から左。その左上に見えるのは、中華料理もありますよというサインだ

 赤いチェックのワークシャツがとても似合う川辺さんは、そんなクールな男に見えた。店は、父親が1927(昭和2)年に始めたが、早くに他界した。18歳になった川辺さんは、後を継いだ母親とふたりで、店を切り盛りしてきた。「昔は洋食が中心で中華も出してたんだ。まあ、今も同じなんだけどね」。そう言うと、川辺さんは店の奥から丁寧に扱わないと破けてしまいそうな古いメニューを出してくれた。

 表記が面白いのが、この手のメニューの特徴だ。飲み物のところにコーヒーがありその上には「コー茶」とある。「ポークソテー40円」や「海老(えび)フライ」などの洋食らしいメニュー名が羅列され、卵料理のなかに「ボイルエグス20円」や「フライエグス20円」などと小さな文字で書かれている。ゆで卵の値段がメイン料理であろうポークソテーの半分というアンバランスな価格設定が時代を物語っていた。「トマトサラダが時価」、に至ってはもはやシュールとしか言いようがない。「当時、トマトは高かったんじゃないかな。じゃないと、時価なんてことにはならないよな」

いつごろのもの?という質問にも、「いつだろうなぁ」としか答えてもらえないメニュー。ただ、値段を見ると「戦後ぐらいだろう」と言う川辺さん

   確かに、こういう不思議な値段設定が、昭和の食堂には存在していたのである。「俺は、その当時のことについてはよく知らないけど、かなり珍しがられたみたいだよ。秩父では洋食なんて誰も食べたことなかったから」。当時に比べて料理の数は大幅に削られ、メニューはシンプルになったが、洋食メインで中華料理や丼物もあるラインアップの伝統は今も受け継がれている。料理数を減らした理由を川辺さんに聞いてみた。「最近のお客さんは、家族4人でくるとみんな頼むものがバラバラなんだよ。だから、種類が多いとめんどくせーんだ」

料理の得意な親せきのおじさんが作ってくれたような温かい味の唐揚げ(600円)は、濃いめの味付けなので、ご飯か日本酒と一緒だとさらにいい

 簡単明瞭である。得意な料理はと尋ねると、「オムライス」と即答した。なるほど、ネットに出てくる料理の写真が、オムライスばかりなのもうなづける。そこで、唐揚げと酒の組み合わせを注文すると、川辺さんは目を丸くして、「唐揚げ撮るの?」と聞き返す。天邪鬼(あまのじゃく)な奴と思ったらしい。それでも重ねてお願いすると、厨房(ちゅうぼう)へと消えた。しばらくすると、プチプチと鶏肉を揚げる油の音が聞こえてくる。供された唐揚げは、今まで食べたことのない味だった。胸肉を使っているが、そのジューシーさに驚く。使う調味料はしょうゆと酒だけ。ちょっと濃いめの味付けは、飯にも酒にも相性抜群だ。「俺は、料理下手だから」。謙遜する川辺さんの言葉を聞きながら、同時に唐揚げを頬(ほお)張りながら、頭に浮かぶのは洗練という言葉だった。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする