昭和へGO! あの頃に戻れる鶯谷ゲートウェイ

 グルグルと回る光とビートの効いたリズムが基本線だが、時々によって違う顔が現れるのは、「人が作っている」からに他ならない。昭和という時代は、今と比べて圧倒的にモノが少ない時代だった。遊びは、道具から自分たちで作り、ルールを決めて遊ぶのが当たり前だった。「遊ぶ場所は道端が基本。家に帰っても、あったのはダイヤブロックとか、自分で作らなくてはいけない遊びばかりでした。僕の考え方は、それと全く同じなんですよね」。与えられたものは、すぐに飽きてしまうと北島さんは言う。「でも、自分たちで作ったものって、飽きることはない。飽きたらまた新しいことを作ればいいだけです」

点々とした光がうごめく黒いホールは、思った以上に広々としている

 北島さんにとって音楽の基本は、昭和歌謡にある。当然こだわりもそこにあるのだ。「昭和歌謡って、戦後から始まって日本が豊かになっていく背景の音源なんですよ。裕福なアメリカで生まれた楽曲のメロディーからいいとこ取りでリメイクされ発展してきた。言い方は悪いけど、パクって日本人なりのアレンジを加えたものなのです」。1980年代から主流となっていく、いわゆるコンピューター使った電子音楽とは別物だ。「80年代中盤までは、人がドラムをたたきギターを弾いて歌っていました。つまり、人間が作っていて、その後に生まれた電子音楽とは一線を画します。昭和歌謡が人の心を打つ大きな理由です」

マスクにつける小さな飾りが売られていた。ダンスフロアでキラキラと光る仕掛けだ

 ジョークのようなベタベタな歌詞も妙に惹(ひ)かれてしまう。「『折れた煙草(たばこ)の吸がらで、あなたの嘘(うそ)がわかるのよ』とか、『パッと狙いうち』、『私の私の彼は左きき』などなど、数え上げれば切りがありません」。かなりの高い確率で、歌詞にエロ的な要素が入っていたのも特徴だと北島さんは笑う。「人が作った生々しさがありますよね。そこにたまらない魅力を感じているんです」

 北島さんにとって音楽はなくてはならないものだったし、ごく自然に聞こえてきた空気のような存在だった。「実家が工場で、商売人だったので子供はほったらかしでした。代わりに可愛がってくれたのは従業員。営業に出かけるときなんかに『ケイボウ(北島さんはこう呼ばれていた)乗っていくか』って、トラックの助手席に乗せてもらいました。彼が運転しながら歌っていた、民謡や歌謡曲が、いまだに耳に残っているんです」。会社が年に何回か催した全社員を集めての大宴会では、当時はやっていた曲を手拍子で歌った。上手な人もたくさんいた。「子供ながらにいいなと思っていて、強烈に残っている。僕の原点です。中学生になるとビートルズに出合いました。いずれにしても、僕の中には、いつも音楽が流れていたと思います」

往年のディスコをほうふつとさせる巨大なミラーボール

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