携帯のない時代が織りなすドラマに感慨ひとしお

 電話の形状そのものもすっかり変わった。言うまでもないが、かつてはダイヤルを回していた。少なくとも平成生まれの若者は、ダイヤル式の電話を前にしても、どう使っていいのかわからないだろう。ピンクの公衆電話を今だに置く、昔ながらの喫茶店店主が、苦笑いをした。「今の人たちは、『ダイヤルを回す』ことも、公衆電話ではお金を入れないと電話がかけられないことも知らないんですよ」。確かに今、誰かと連絡を取るのに、10円玉(または100円玉)をわざわざ用意する人は、いないだろう。テレフォンカードも今や絶滅危惧種だ。

 かつて家にあったのは、ズングリした黒電話だった。個性もなければ面白みもない。そこで、人々は柄の入ったカバーを掛けて、少しでも色気を出そうとした。今考えれば、かなり滑稽(こっけい)である。今と比べれば、それらが同じ機器であることを疑いたくなるほどの激変ぶりだ。形や使い方の変遷は、時代の空気と連動していないのも面白い。全く独立した歴史を経てきたと思う。

携帯電話がなくても待ち合わせが容易だったのは、渋谷・ハチ公像のおかげだ

 我々の暮らしの中に、完全に溶け込んでいる携帯電話は、「普及」と言う言葉にさえ違和感を覚える。携帯のない世の中を想像することは悔しいが困難なのだ。なかでもスマートフォンはこの上なく便利で、呼び名も言い得て妙だ。手のひらサイズの一枚の薄っぺらい板さえあれば、世の中の面倒なことが、瞬時に思い通りに解決するように見える。しかし、携帯がなかった頃のほうが、人と人をつなぐストーリーがあったと思う。

 日常の細かいことが不便で、思い通りにならないこともたくさんあった。少なくとも、目的を達成するためには、いくつかのハードルを越えることが必要だった。それらを全部取っ払ってくれたのがスマートフォンなのである。ただ、利便性ばかり追求する世の中よりも、多少不便な時代のほうが、人間味が感じられる分、幸せだったような気がする。それは、どんな世代の人にとっても不自然な感覚ではないと信じたい。

文・今村博幸

 

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