携帯のない時代が織りなすドラマに感慨ひとしお

コラム其の拾壱(特別編)

retroism〜article86〜

 電話は、ごくありふれた機器だ。誰の家にもあったし、一人一台の時代はとうに一般化している。ただ、固定電話しかなかった昔と携帯電話(スマートフォン)が主流の今とは、はっきりとした違いがある。なにか行動を起こす時の気軽さとストレスの質量だ。

 象徴的なのは、彼女との連絡だ。彼女と連絡を取るためには、「家族」という、乗り越えなくてはならない壁があった。相手が電話を取る状況には主に3パターンある。母親、父親、兄弟姉妹(まれに祖父母も)だ。一番ハードルが低かったのは兄弟姉妹。かなりすんなりと繋いでもらえた。母親の場合も比較的容易なことが多かった。なぜか昔から、母親は娘の恋に寛大だったのだ。電話で話すうちに、彼女よりも母親と仲良くなってしまうことすらあった。しかし、父親だとそうはいかない。ごく機械的に、彼女に取り次いでもらえたら御の字だろう。昭和には、愛想のいい父親は皆無に等しかった。悪いパターンはいくつかあり、ただ電話をしただけなのに、叱られたり、グダグダといわれのない説教を聞かされたりする。最悪なのは取り次いでもらえず、一言「いない」というだけでガチャンと電話を切られてしまうことさえあった。

すべての家の電話はこの黒電話だった。最初に7万円ほど払って加入権を得る。当時の物価を考えれば、とても高価でもあった

 男として、その気持ちはわからないでもない。自分の過去に裏打ちされた後ろめたさがあると思うからだ。彼らの胸の中には、親に話せないことを彼女としてしまった経験が仏の戒めのように残っているからに違いない。だとしたら、男として、この電話をかけてきている輩(やから)も自分と同じだと考えてしまうのは当然だろう。極めて単純だが確信に迫っていると言えなくもない。顔も知らない人間が間違いなく「男」だという事実も看過できない。ただ男と言うだけで、父親は不快になり、対応がトゲトゲしくなるのは、同性としてよく分かるのだ。

 そんなわけだから、何回かかけて、ぞんざいな対応の父親ということが分かっているときには、彼女と連絡を取るのにも、名状しがたい緊張感があった。彼女の携帯に直接アクセスできる今は、基本的に(彼女に対してやましい気持ちがなければという意味だが)、緊張感はない。必ず(極まれに例外も)彼女が電話に出るからだ。

公衆電話という言葉すら死語かもしれない。ましてや、お金を投入しなければ話せない。今考えれば、非常に不便である

 待ち合わせも、携帯電話の登場によって様変わりした。かつては、時間と場所をきっちり決めなければ、どちらかがひどい迷惑を被ることになった。しかし今は、だいたいこのあたりと決めておき、最終的には携帯で連絡を取り合えば、なんの問題もなく会うことができる。

 約束したことに関して勘違いも存在する。携帯なら修正がきくが、昔はそうはいかなかった。家にいれば、固定電話で確認ができるが、外に出てしまったら絶望に近い。自分が思った場所に相手が来なければ、もうお手上げだ。最終手段として、公衆電話から相手の家に電話をして伝言してもらう。それすら、家に誰もいなければ、極めて厳しい状況となる。デート中止という事態も想定される。だから、待ち合わせの最初の時点で、細心の注意を払う。ただ、彼女に絶対に会いたいと思ったら、最大限の努力をするのは当然のことだ。時には、注意しながらメモをし、何度も確認をする。人同士の繋がりの正しいあり方だったと言っていいだろう。それすらせずに済ませられる携帯での待ち合わせや約束は、とても軽薄に思える。必死さがぜんぜん伝わってこない。

 電話の形状そのものもすっかり変わった。言うまでもないが、かつてはダイヤルを回していた。少なくとも平成生まれの若者は、ダイヤル式の電話を前にしても、どう使っていいのかわからないだろう。ピンクの公衆電話を今だに置く、昔ながらの喫茶店店主が、苦笑いをした。「今の人たちは、『ダイヤルを回す』ことも、公衆電話ではお金を入れないと電話がかけられないことも知らないんですよ」。確かに今、誰かと連絡を取るのに、10円玉(または100円玉)をわざわざ用意する人は、いないだろう。テレフォンカードも今や絶滅危惧種だ。

 かつて家にあったのは、ズングリした黒電話だった。個性もなければ面白みもない。そこで、人々は柄の入ったカバーを掛けて、少しでも色気を出そうとした。今考えれば、かなり滑稽(こっけい)である。今と比べれば、それらが同じ機器であることを疑いたくなるほどの激変ぶりだ。形や使い方の変遷は、時代の空気と連動していないのも面白い。全く独立した歴史を経てきたと思う。

携帯電話がなくても待ち合わせが容易だったのは、渋谷・ハチ公像のおかげだ

 我々の暮らしの中に、完全に溶け込んでいる携帯電話は、「普及」と言う言葉にさえ違和感を覚える。携帯のない世の中を想像することは悔しいが困難なのだ。なかでもスマートフォンはこの上なく便利で、呼び名も言い得て妙だ。手のひらサイズの一枚の薄っぺらい板さえあれば、世の中の面倒なことが、瞬時に思い通りに解決するように見える。しかし、携帯がなかった頃のほうが、人と人をつなぐストーリーがあったと思う。

 日常の細かいことが不便で、思い通りにならないこともたくさんあった。少なくとも、目的を達成するためには、いくつかのハードルを越えることが必要だった。それらを全部取っ払ってくれたのがスマートフォンなのである。ただ、利便性ばかり追求する世の中よりも、多少不便な時代のほうが、人間味が感じられる分、幸せだったような気がする。それは、どんな世代の人にとっても不自然な感覚ではないと信じたい。

文・今村博幸

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