文人墨客が愛した新宿の高尚な香りの文化知って

新宿歴史博物館(東京・四谷三栄町)

retroism〜article74〜

 新宿はあらゆる文化の発信基地だ。「新宿歴史博物館」を回覧すると、それが今に始まったことではないことがよくわかる。館内では興味深い資料を基に見応えのあるジオラマやレプリカを通して、その歴史を見るものに語りかける。

新宿の原点「内藤新宿」のジオラマは、その精巧さに思わず引き込まれてしまう

「博物館を造るときに力を入れたのは復元でした。近世の内藤新宿のジオラマ、チンチン電車や文化住宅は、当館の最大の見所です」と学芸員の宮沢聡さんは胸を張る。「『文化を継承する』のが博物館開館の一番の狙いだったと聞いています」。その言葉通り、新宿という街で繰り広げられてきた人々の生き様が随所に浮かび上がる。展示は、縄文・弥生時代から始まり、内藤新宿のジオラマを過ぎると一気に現代へと向かう。宮沢さんが話す。「新宿本来の繁栄は江戸時代の内藤新宿から始まっています」。近世も半ばを過ぎたあたりに今の新宿一丁目から三丁目にかけて出来上がった宿場のにぎわいが原点だというのだ。「やがて呼び名から内藤がとれて、新宿となりました」

昭和初期の映像では、サラリーマンは全員中折れ帽を被っていた。鞄やポケットの中身を見せることで、当時の男たちの暮らしを伝える展示手法も面白い

 そんな新宿で生まれた文化の原点の一つが狂歌である。宿場の周辺に住む下級武士が中心となって巻き置こし一大ブームとなった。同博物館の橋口敏男館長は、自身の著書の中で、江戸時代のサブカルチャーともいえる狂歌の中心は新宿にあったと述べている。「四谷や牛込あたりには下級武士がたくさん住んでいて、そうしたコミュニティーから新しい文化が起こってきた……内藤新宿は江戸の『周辺』であり、脈々と現代に至る文化が当時から受け継がれてきたように思う」(「新宿の迷宮を歩く」より)

新宿に住んだ重要な作家の一人、林芙美子が著した「放浪記」と「続放浪記」。装丁も女性らしく可愛らしい

 明治以降になると周辺の牛込や神楽坂あたりに文人墨客が住むようになる。今でこそ、新宿という街の魅力は、その猥雑(わいざつ)さにあると言える。しかし、かつては珠玉の作品群を残した作家たちが生きた街でもあった。宮沢さんが感慨深げな表情で言う。「特に牛込や四谷あたりは、数多の作家が居を構えて創作活動を行っていました。まさに、文学界を引っ張ってきたのが新宿と言っても過言ではないと思います」

ちゃぶ台の上には、うな丼が4人分。「料理は季節に
よって変わります。天ぷら、コロッケやカレーの時
も。正月にはおせち料理も並べますよ」と宮沢さん

 そんな作家の一人、尾崎紅葉について宮沢さんが解説する。「彼は、神楽坂の近くに住んでいましたが、雑木林や江戸情緒が残っているこの辺りに惹(ひ)かれたんじゃないかと思う。さらに江戸の文人に憧れていた節があります。弟子の泉鏡花も近くに住んでいました。極めつきが夏目漱石。まあ彼は、新宿生まれですからね」。そのほか、森鴎外や幸田露伴など、そうそうたる文学者が新宿に居をかまえた。大きなパネルには、幕末から昭和まで作家たちが残したコメントや、凝った装丁の作品が並んでいる。「一部、復刻されたものもありますが、ほとんどは当時の本物です」。それら美しい装丁を見ているだけでも楽しい。

新宿中村屋のカレーライス。今も同じスタイルで供される 

 また紀伊國屋書店も、新宿の歴史を語る上で忘れてならない存在であり、創業者の田辺茂一氏の貢献度は高い。「彼は、若い頃から文学青年で自分でもちょこちょこモノを書いている。作家のパトロン的な立場でもあり、彼の周りには文士がたくさんいたことも、書店の創業と密接に関わっています」。田辺氏が著した随筆集「酔眼竹生島」が出版されたとき、多くの作家や画家が描いた寄せ書きも、極めて貴重な資料だ。「高見順や井伏鱒二も寄せ書きしていますが、洋画家・中川紀元の描いたヌードは、ちょっと面白いですよね」。そういって宮沢さんが微笑んだ。

紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一氏の「酔眼
竹生島」出版時に書かれた寄せ書き。洋画家
の中川紀元が描いた挿絵風のヌードも貴重だ

 寄せ書きに続くのは、さらに同館ならではの展示である。まずは、戦前から走っていた路面電車のレプリカ。いわゆるチンチン電車の復元模型だ。1935(昭和10)年ごろに新宿大通りを四谷方面へ走っていた車両は2種類あった。27(昭和2)年に製造された4200形は木造で小型、30(昭和5)年に造られたのが5000形で、こちらは半鋼製で大型だった。展示されているのは5000形。乗降客が爆発的に増えつつあった新宿駅に対応すべく製造された車両である。「出発進行!」と言う車掌の掛け声、チンチンと軽やかな出発の合図、そしてゴーと言う爆音をとどろかせて路面電車は駅を後にした。「朝日新聞が、『騒音地獄一巡り』と言う記事で、その音の大きさを伝えています」。「新宿がその王座『わめく鬼』市電」というタイトルで始まる記事には、東京の盛り場の中で、電車、バス、円タク(1円タクシー)で最も騒々しい場所が新宿だと報じている。市電が通る時が『騒音地獄』の中でも最悪だったようです」。市電は想像以上にうるさかったらしい。しかし、東京で暮らす人々に多大なる利便性を与えた手段であることは間違いない事実だ。

新宿から両国へ向かう市電、いわゆるチンチン電車。大きな車両は広い道しか走れなかったという。質感にもこだわって造られている

  一方、そんな電車の利用客が住んだのが、新宿の「街」の周り(郊外)に立てられた「文化住宅」だった。「文化住宅があったのは、山手線の外側。落合や下落合あたりに多く建てられました。復元したのは、落合にあった金子さんの家です」。大正から昭和にかけて、山手線の西側にサラリーマンのための住宅が次々に建ち始めていた。新宿や渋谷、池袋などを起点とした郊外電車の開発と同時に、沿線には住宅地が開発されていく。目白文化村や田園調布、大泉学園、成城学園、国立などがそれであり、本格的な洋風建築の建物が多く建てられた。大正デモクラシーの高揚を背景に、生活の西洋化を反映していたそれらの住宅に人々は心の底から憧れた。せめて一部屋だけでもと、小さな和風住宅に西洋の応接間をつけたのが文化住宅である。展示されている住宅に、都心に勤めるサラリーマンは、18円(現在の5万4000円相当)ほどの家賃を払い住んでいたという。「文化住宅の象徴である洋間は、客を招き入れる応接間として使うのが一般的だったようです。客間なので子供は入ることすら許されなかったと言われています」。応接間には、ソファーとローテーブルが置かれ、キャビネットの上には蓄音機が見える。西洋建築を思わせる真っ白な出窓が印象的だ。文化住宅の入り口の向かいに備えられた「ポケット拝見」という展示も面白い。当時のサラリーマンの持ち物や、主婦たちの化粧品などが、当時の風俗をよく表している。

文化住宅の象徴ともいえる洋間に備えられた
白い出窓と、外壁下部の下見板が特徴的だ 

 日本のみならず世界でも有数の繁華街であり、雑多で煩雑な街というイメージがある新宿。しかし歴史をひもとくとかなり高尚な香りのする街なのである。宮沢さんは言う。「1960年ごろに騒乱事件があったりして、いいか悪いかは別にして、文化の担い手は若者でした。言い換えれば文化を生み出し発展させた若者たちが集う街でしたし、彼らが文化をけん引してきた。新宿は、猥雑なイメージが確かにあります。でも香り高い文化が生まれ育った街でもあるのです」

「新宿区には、資料を展示する大きな場所がなかったということで造られたのが当館です」展示内容の充実ぶりに喝采! オープンは1989(平成元)年だ

 新宿歴史博物館を一回りすると、宮沢さんの言葉が心に染みる。改めて新宿という街を違う角度から眺めるのも悪くない。

しんじゅくれきしはくぶつかん
東京都新宿区四谷三栄町12-16
📞03-3359-2131
開館時間:午前9時30分〜午後5時30分(入館は午後5時まで)
休館日:第2・第4月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
観覧料:一般300円、小・中学生100円(団体割引あり)
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

文・今村博幸 撮影・JUN

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