M’s Bar(横浜・馬車道)
retroism~artiale13~
時間には本来音がある。「カチ、カチ、カチ、カチ」というあの音だ。
刻んできた積み重ねが店の歴史であり、その音を絶やしたくないという想(おも)いで、店主の服部雅則さんは店を営んできた。カウンター席にしろテーブル席にしろ、バーで交わされる会話の広がりは無限だ。悲しい話があり、爆笑ものの自虐ネタが語られ、恋バナに花が咲く。また酒を飲む人も、心にいろいろな思いを秘めている。誰もがないまぜになった喜怒哀楽を抱えながら、笑顔で覆い隠して過ごすのだ。 壁にかけてある柱時計は、そんな左党たちをずっと見続けてきた。
三十数年分の汚れや、たばこのヤニが染み込んだ壁と一
体化している柱時計は、静かに店の象徴として時を刻む
「この時計は、このバーの象徴なんです」。服部さんは感慨深げにそう告げた。創業は34年前、オーナーとして彼は3代目だ。「僕にとって一番大切なものでもあります。この古いカウンターと同じぐらい大事かな」。 性能もあるが、温度や湿度によって時間が狂うことも頻繁にある。針の進みが早かったり遅かったりすれば、振り子を上下させることでペースを変えて調整が必要だ。「今も少しおくれてますね」。そう言うと、彼は、時計の蓋(ふた)を開けて時間を直した。3日に一度ぐらいの割合で、文字盤にある鍵穴に鍵を挿してネジを巻く。そのたびに思い出すのは、この時計の存在感だ。
入り口上部にはめ込まれている、タンノイのスピーカーからいい音で流れるのは、80年代のポップスだ
34年間、ずっと壁にかかっている時計だが、止まってた時期がある。ネジを巻きすぎて壊れたのだ。店を継ぐ5年ほど前だった。当時の店長が直してくれるところを探して尋ねると十数万かかると言われた。オーナーが修理代を出してくれそうになかったのでしばらくはそのままだった。そして自分が店を継ぐことになった時、真っ先に考えたのが、時計を動くようにすることだった。「止まった時計の縁起の悪さに耐えられなかったかったんですよ」。継いだ当時、24年間続いてきたバーが老舗と呼ばれた。「老舗」という言葉に心を掴まれた。「たかだか24年だけど、続いてきた時間を止めることはできないと思いました」
だからこそ、時計を止まったままにしておくわけにはいかなかったし、ましてや捨てる気はさらさらなかった。オープン当初の雰囲気を取り戻したいという気持ちも大きかった。新規オープンの祝儀も少なからずあったので、それを使おうと思った。「ソコソコ出費は覚悟してたんですが、別のところで聞いたら、1万5000円と言われたので、間髪入れずに、ぜひお願いしますと言ってました」。時計が幸運を運んできたのかもしれない。
ニッカのランプからはほのかな明かり。父親の思い出とともに仕舞われ、捨てられずにその居場所を探していた客が、店に持ち込んだ
本来、バーは時計がないのが常道だ。それは、時間を気にしないでゆっくり飲んでほしいと言うバーテンダーの気遣いでもある。しかし敢(あ)えて時計を壁にかける。カウンター席に座ると、客の背中の先に時計があるので、気にならないだろうと服部さんは思っている。「僕からは見えますけど、お客さんに時間を知らせるためのものではありません。あくまで象徴として、そこにあるんです」。店内が静かな時には、カチカチと小気味良い音がBGMとしても機能する。薄暗い店の中で、カウンター、テーブル、椅子、壁、そして時計も塗り込められたように存在するのは、時を経ることでしかなし得ないことだ。
ホテルニューグランドで生まれた高級なナポリタ
ンは、野毛の洋食屋で庶民の食べ物へ。両地域の
中間にある馬車道で新たに再生した裏メニューだ
ところで、そんな空間の中でぜひとも飲んでほしいのは、服部さんこだわりの生ビールだ。こだわるのには理由がある。彼が20歳そこそこの頃に、京急久里浜のちょっと小洒落(じゃれ)た鳥料理屋で飲んだビールの味が忘れられなかったからだ。「生ビールってこんなにおいしいものなんだって、その時初めて知りました。どんな注ぎ方をしているんだろうって、様子を伺っていたんですが、結局その時にはわかりませんでした」。どうしたらビールをおいしく注げるのか、服部さんはバイトしていた店で、練習を繰り返した。
3日に一度ほど時計のネジを巻くのにつかわれる鍵
突然その日は訪れた。一家言ありそうな女性客の一言が、全ての始まりだ。女性は言った。「泡までおいしいビールを頂戴(ちょうだい)」。チャンスだと服部さんは思った。そして、今まで考えていた自分なりの方法で、ビール注いで出してみたのである。 女性客はこう告げた。「ほんとうに泡までおいしいわ」と。その言葉が、M‘s Barのビールのおいしさの原点になっている。「完全に我流です。荒い泡で蓋をしながら7分目弱まで注いで、ある程度その泡をバースプーンで取り除きます。完全にとってしまわずにビールに蓋をした状態で、最後にきめの細かい泡を乗せます。バーだからこそビールを飲んでほしいんです」。完全な我流だから、ここのビールはここでしか飲めないことになる。
馬車道に入って見上げると、赤いネオン管が目に入る。木の葉が落ちる冬には根岸線からも見えるらしい
店を訪れたらぜひカウンターに座って、背中越しに柱時計のカチカチという音をBGMに極上のビールで至福の時を過ごしてほしい。 虜になること請け合いだ。
えむずばー
横浜市中区住吉町5-51 馬車道会館ビル3F
📞045-662-9029
営業時間:午後6時~午前2時
定休日:不定休
文・今村博幸 撮影・柳田隆司
コメント
柱時計の向かいの壁にはイングリットバーグマンもいるしね😁
レトロイズム(retroism visition old,learn new)へのアクセス、ありがとうございます。
そういえば、往年の大女優イングリッド・バーグマンも、
M’s Barの壁に溶け込む「華」の一つですよね。
店のセンスの良さを感じさせてくれます。
マスターのビールは世界一美味しいです。
レトロイズム retroism visiting old, learn new にアクセスありがとうございます。
こちらのビールはサッポロの生ですが、他で飲むサッポロ生とは、
確実に違う味で飲ませてくれます。つまり世界で一番という言い方は、
決して間違いではないかもしれません。